築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)頃に東条紀伊守によって築かれたと云われる。
東条紀伊守は桑野城主東条関之兵衛の伯父である。天正5年(1577年)頃に東条氏は長宗我部氏に従い、東条関之兵衛は元親の養女を妻に迎えた。この頃、東条関之兵衛は西方城を守っている。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐では東条関之兵衛は木津城を守備していたが、秀吉方であった伯父の東条紀伊守の説得によって開城し、桑野城へ退いた後に土佐へ逃れた。しかし、敗戦の責任を問われ、東条関之兵衛と弟の東条唯右衛門は処刑された。
西方城は東へ伸びた山塊の先端頂部の西方山山頂に築かれている。現在は登山道が整備され、東側の一部に展望台が設置されている。
主郭は山頂にあり低い土塁が付いている。虎口は北と南にあり、北の虎口は現在の展望台の方に伸びている。南の虎口は南西側にある鉄塔へ伸びており、主郭の周囲には帯曲輪が付いている。
日本城郭大系に掲載されている縄張図では、東麓にある八幡神社側に向かって幾重もの帯曲輪状地形を描き、山腹に腰曲輪が付いているようであるが確認していない。
西方山への登山道が北麓の車道に付いている。この登山道と展望台は北麓にある日亜化学工業によって整備されたようで、展望台には西方城のパンフレットなども用意されている。
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