築城年代は定かではない。 観応2年・正平6年(1351年)足利義詮の家臣で淡路国由良城主である安宅備後守頼藤と、同族で紀伊国周参見見氏が竹原庄を知行したとき、牛牧庄を預かっている。
延文3年・正平13年(1358年)に安宅氏は南朝方に与したが、貞治元年・正平17年(1362年)頃には阿波国の南朝勢力は一掃され、安宅氏も阿波を追われた。
その後、阿波国守護職細川氏の家臣新開氏(しんがい)が入部した。この新開氏は武蔵国新戒を出自とする豪族である。
天正3年(1575年)土佐の長宗我部元親が阿波への侵攻を開始すると、天正8年(1580年)には牛岐城主の新開遠江守実綱入道道善も降伏した。
天正10年(1582年)中富川の戦いでは長宗我部方として戦ったが、同年10月に丈六寺に招かれて謀殺された。その後、元親は弟の香宗我部親泰を海部城から牛岐城へ移し、阿波の拠点としている。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で、木津城が落城したことから香宗我部親泰も牛岐城を破棄して土佐へ退いた。その後、阿波へ入部した蜂須賀家政は家臣の細山帯刀(後に賀島主水正と改名)が一万石で城主となり、阿波九城の一つとなった。
賀島氏が入城した後、牛岐から富岡に改称され富岡城と呼ばれたが、寛永15年(1638年)一国一城令によって廃城となった。
牛岐城は阿南市役所の南西に築かれていた。かつては南北に二つの小山が並ぶひょうたん型の山があり、南に本丸が置かれていたが、大正時代の道路建設によって南北に分断、さらに産業展示場の建設によって大部分が消滅した。
現在牛岐城趾公園となり、北の入口に城門が作られ城跡公園らしくなっている。小山の上にある牛岐城趾館の内部には発掘調査によって出土したものが展示され、遺構である石垣が内部に展示されている。
城門(模擬 城門)
阿南市役所の南西、西側に公園の駐車場がある。牛岐城趾館は施錠されているが、公園管理事務所に願い出ると開けてもらえる。
最寄り駅(直線距離)