築城年代は定かではないが元亀2年(1571年)頃に海部左近将監友光によって築かれたと云われる。
海部川流域に勢力を持った海部氏は吉野城を居城としていたが、戦国時代末期に海部川下流の鞆浦に築城したのが始まりであった。海部氏は三好氏に従っていたが、長宗我部元親が土佐国を統一すると阿波国の最前線となっていた。
元亀2年(1571年)長宗我部元親の末弟である島弥九郎親益は、病気療養の為に土佐国から海路有馬温泉に療養に赴く途中、強風によって那佐湾に停泊した。この知らせを聞いた海部友光は手勢を率いて島弥九郎を討ち取った。これを期に長宗我部元親は阿波国へ侵攻することとなる。
天正3年(1575年)大軍を率いて海部城を攻めると、海部方の武将で鉄砲の名手栗原伊賀右衛門は攻め寄せる敵兵を尽く打ち落としていた。しかし長宗我部方の武将で槍の名手である黒岩治左衛門によって討たれてしまい、ついに海部城も落城した。一説にこの戦いは宍喰城での戦いで、海部城では主力が三好氏に従軍して留守であったため、抵抗する間もなく開城したとも云われる。
海部城を攻め落とした元親は弟の香宗我部親泰を海部城に入れて阿波国の拠点としたが、その後に牛岐城へ移っている。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐によって蜂須賀家政が阿波国へ入封すると、阿波九城の一つとして大多和長右衛門正之を入れ改修された。その後、城番は中村右近大夫重友、益田宮内一政そして一政の子、益田豊後守行長へと替わった。この行長は藩の掟を破り、木材を切り出して江戸で売り払い私腹を肥やして謀叛を企て処刑された。
寛永15年(1638年)海部城は廃城となり、かわって東麓に御陣屋が築かれた。
海部城は海部川河口の南部、海部小学校の東背後にある山に築かれている。現在は陸続きであるが、かつては海部川が周囲に流れた島であった。山頂の主郭部を中心に山全体に曲輪が広がっている。
主郭部は山頂にあって東西に三つの曲輪、北西に一段の腰曲輪が残る。 主郭は西端にある小さな曲輪で、南側に石積された多聞櫓跡のような幅広の土壇が残る。東下は土塁が巡る方形の曲輪で北側に開口部がある。これが虎口なのか崩落なのかはっきりしないが、北の山腹にある石組みの通路、さらに下方に土塁を伴うすり鉢状の地形がある。東端の曲輪は東西に長い平段となっている。
城山の北端にあるのが観音庵跡で、ここに森志摩守と判形人の墓が残っている。
城山は整備されていない。石碑が城山の北の観音庵跡の所に建っている(地図)。ここから尾根上に登り北側からよじ登ったが、もう少し整備された道は南東側に付いている。南東側の道は無線塔のある山との間にある谷間へ登っていく道で、住宅地の南東隅から登っていく道があり、そこから主郭まで山道が付いている(地図)。
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