築城年代は定かではない。四国最古の禅寺で、永仁3年(1295年)瑩山紹瑾による開山である城満寺が麓にあるが、この吉田城に関する史料は少ない。
「阿波志」によれば吉田庸俊が城主で、天正3年(1575年)に長宗我部元親に攻められ降伏している。その後は元親の家臣北村閑斎を置いて守らせた。
吉田城は城満寺の北西にある標高120m程の山と、そこから東へ張り出した尾根の先端に城郭遺構が残る。ここでは「中世城郭辞典」に従って吉田城(山城)と吉田城(本城)とに分けて掲載する。
吉田城(山城)は城満寺の北西、標高120m付近に主郭を置いた山城である。 主郭は南北に長い曲輪で西側に土塁を設けており、途中に櫓台状の土壇が付いている。 南尾根に一条堀切があり、その先に二段ほどの小郭らしきものがあるが、ほとんど自然地形である。
主郭から東へ伸びた尾根の標高80m付近はなだらかな地形で、その先端に土橋を伴う堀切が一条ある。この堀切から西の部分に平段がいくつか付いており、よく歩かれた山道が堀底状になって付いている。
ここからさらに吉田城(本城)のある南東の尾根でちょうど本城との中間地点に、大きく二段の平段があり、関連する遺構かもしれない。
吉田城(本城)の西背後から山道が尾根伝いに続いており、それを登っていくと東尾根の堀切に至る。道はそのまま主郭の北側の山腹を回って北下の鞍部を通っている。
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