寛永15年(1638年)徳島藩によって築かれた。
海部城番であった益田豊後の謀叛が発覚して粛正されると海部城下の治安維持と国境警備のために、「判形人(はんぎょうにん)」36人が海部城下に派遣された。判形人は城山の北麓に屋敷跡があり、現在はその子孫である木内家が残っている。
寛永15年(1638年)海部城が廃城となると東麓に郡代官所が設けられ「御陣屋」と呼ばれた。その後、寛政11年(1799年)に鞆の御陣屋が新設されたが、文化4年(1807年)には郡代官所が日和佐陣屋に移されている。
御陣屋は海部城の東麓に築かれていた。現在は宅地が立ち並んでおり遺構はないが、宅地の一番奥に社が祀られ「旧御陣屋跡」の石碑が建っている。