詳細不明。『芸藩通志』には「鏡山 田原 並に中山村にあり、」とだけ記されている。
大永7年(1527年)に武田方の白井氏を攻めた大内勢力と後詰にきた武田方の勢力が松笠山で合戦しており、この戦いに関連する城とも考えられている。
田原城1は松笠山から南に伸びる尾根の標高148m付近に築かれている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』や『中山村史』で田原城とされる場所は標高148mの鉄塔が建っている地点である。
主郭Iは鉄塔が建っている部分で一段小高くなって高い切岸が巡る。鉄塔がたっているため曲輪面の旧状は不明であるが、柱を立てる部分を大きく削り込んで残った部分はかなり傾斜していることから、もともと削平されていなかったと推測される。
北下には南北に伸びる尾根を削平した平坦面IIがあるが、北端は小規模な段造成があるのみで遮断できるような高い切岸や堀はない。
主郭Iの周辺は小規模な段造成がなされており、尾根先に向かって段々と続く地形がある。南尾根には浅い溝、東尾根部分にも山道と接続していて改変されているが堀切らしき溝はあるが、いずれも堀切と断定できるような地形にはなっていない。
図化していないが、この地点から松笠山に続く尾根には広域に削平段や古墳らしき高まりが点在しており(CS立体図参照)、曲輪Iの部分ももともと古墳であった可能性がある。曲輪IIは北側にある削平地の作りと似ており後世の改変の可能性がある。
大軍が駐屯した陣城とも考えられるが、周囲を遮断できるような切岸や堀、土塁などが確認できず、削平のみということを考慮すると畑など後世の造成の可能性が高い。曲輪Iの部分のみは他と比べて切岸が高く城として利用されていた可能性はある。
中山鏡が丘から水道施設に登る階段があり、そこから山に入った。松笠山と南の中山を縦走するルートがあり、特に整備された道ではないが尾根筋は歩きやすい。
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