築城年代は定かではないが屋代氏によって築かれたと云われる。 屋代氏は村上氏の一族で屋代家盛より始まるとされる。
天文22年(1553年)武田氏が侵攻してくると屋代正国は塩崎城主の塩崎氏とともに武田氏にいち早く降伏し、村上義清は葛尾城を失って越後の長尾氏を頼って落ちていった。武田氏に属した屋代正国は荒砥城主となった。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると織田信長の家臣森長可がこの辺りを支配したが、信長が本能寺の変に倒れたため森氏は撤退、越後の上杉氏の勢力が伸びてきた。上杉氏は村上義清の子村上国清を海津城主に任命すると屋代秀正を副将として二の丸に配したが、天正12年(1584年)秀正は上杉氏を離反して荒砥城に籠もった。しかし、荒砥城で上杉氏の攻撃に対抗できず、秀正は家康を頼って落ちていった。
その後、屋代氏は秀正の子忠正が安房国北条に一万石を領して大名となったが、三代忠位の時に改易となり、子孫は旗本として存続した。
屋代城は屋代駅の東に聳える標高458mの一重山に築かれており、現在は一重山公園として整備されている。
屋代城は一重山山頂から北へ伸びた尾根の先端までを城域とし、南北およそ800m程の規模がある。主郭から北へ伸びた尾根に堀切で遮断した曲輪群が先端の成田山不動尊まで連なっている。主郭の南背後は水道施設と墓地となっているが、かつてここには五重堀切があったという。
北端の成田山不動尊から尾根伝いに遊歩道がある。主郭に近い一重山側は東の県立歴史館側から車道が墓地まで通じ、西の満照寺からも道があるようである。
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