応永10年(1403年)頃に村上満信らの信濃国人一揆によって築かれたと云われる。
大塔合戦の後に幕府は細川慈忠を代官として派遣したが、村上満信らの信濃国人一揆はこれに従わず、塩崎新城を新たに築いて抵抗した。幕府軍は村上氏の生仁城を攻め、さらに塩崎新城に籠もって抵抗する一揆勢を攻め落とした。赤沢城は市川家文書には「塩崎新城」として史料に登場する。
赤沢城は小坂山から東へ派生した尾根の先端が北へ伸びる地に築かれており、長野自動車道城山トンネルの上に位置する。
主郭は山頂に築かれており、南端に土塁、南側面には石垣が確認できるが、規模は小さい。北へ降ると鉄塔があるが、その先へ向かうと城内でもっとも広い二郭に至る。尾根の先端には小さな祠が祀られているが、周囲は切り立った地形で堀などは見当たらない。
主郭の南背後は多重の堀切と竪堀群によって遮断されている。
東山腹にある飯縄稲荷神社から篠山遊歩道が整備されている。道は細いが飯縄稲荷神社の鳥居の奥に2台ほどの駐車スペースがある。
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