築城年代は定かではないが鎌倉時代末期に山家氏によって築かれたと云われる。 最初に築城した山家氏は諏訪氏系の一族で、元弘元年(1331年)に徳雲寺を創建した神為頼の末裔が山家氏を称した。
諏訪系山家氏は、文明12年(1480年)小笠原長朝に叛いて攻められ、翌13年に諏訪氏の援護を受けたが敗れて滅亡した。その後、永正2年(1505年)頃に播磨国姫路より小笠原氏と同流の折野薩摩守昌治が来住し、小笠原貞朝に属して山家城を居城とし山辺氏を称した。
折野山辺(山家)氏は昌治の後、越前守昌寛、源十郎昌実、藤九郎昌矩と四代続く。 天文19年(1550年)に武田信玄が小笠原氏を攻めたとき、イヌイの城が落城すると、この山家城も自落し武田氏に降っている。
山家城は山家氏の居館のあった徳雲寺(現徳運寺)の東背後、北沢と菖蒲沢との間に聳える標高1056mの山に築かれている。 大規模な山城であるが整備された山道があり、管理された山林で遺構の状態も非常に良く保たれている。
山家城の最高所は標高1056mの所で、秋葉神社が鎮座しているが、主郭は南西の尾根先の標高1010m付近である。
主郭は一段小高く造成され周囲に石垣があり、特に東側が高く良く残っている。そこから北東の山頂部に続く尾根には五重の堀切を設けて遮断しており、ここから伸びる長大な連続竪堀は圧巻である。
山頂は北東側に土塁が付いた曲輪があり、南西の尾根に堀切を挟んで秋葉神社の境内となっている。この神社の北側山腹に畝状竪堀群が付いている。山頂から東へ伸びた尾根は東端部に屈折した虎口のような遺構があり、尾根先は堀切によって遮断している。一方北西側の尾根は自然地形に近いものであるが、先端付近にハの字に竪堀が付いている。
主郭の西側から西尾根に向かって伸びる尾根は、最高所に土塁、石塁のある曲輪があり、そこから西に向かって段々と平段が続く。その先には堀切が三条付いており、これが登山道入口から見える竪堀と繋がっている。
徳運寺から一本東の道を登っていくと登山道入口がある。案内板はこの入口の他に上手町集落集会所の所にもある。登山道入口にも駐車可能であるが、西尾根からそのまま降りてくると徳運寺の墓地に降りてくることができるので、下から登るのも良いだろう。
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