築城年代は定かではないが春日氏によって築かれたと云われる。 春日氏は祢津系の春日貞親から始まったとされる。
春日氏については詳らかではないが、『諏訪御符礼之古書』には寛正3年(1463年)春日宮太郎丸、文明4年(1472年)春日伊豆守宗貞、長享2年(1488年)春日左衛門太夫貞重の名が残る。
天文年間(1532年〜1555年)に武田氏が佐久へ侵攻すると春日氏に代わって、依田系の芦田城主芦田信守が城主となった。芦田信守・信蕃(後の依田信蕃)は武田氏に仕えて信濃先方衆として各地を転戦し、天正3年(1575年)の長篠合戦のときには遠江国二俣城の守将となって固く守り、病没した信守の跡を信蕃が継いでいる。天正10年(1582年)には信蕃は駿河国田中城の守将であったが、ここでも固く守り武田勝頼が自刃したのちに開城している。
武田氏滅亡後は徳川家康に従って佐久へ戻り、小諸城に入ってから春日城へ戻り、旧武田領を巡る徳川と北条氏との争いの中、北条氏の糧道を断ち切る功績を挙げた。講和後は佐久の平定を行ったが、大井行吉の籠もった岩尾城を攻めた時、鉄砲に撃たれ弟信幸とともに信蕃は討死した。
信蕃の跡を継いだ康国は松平姓を賜って松平康国と名乗り、小諸城六万石を領した。しかし、天正18年(1590年)小田原征伐で上野国石倉城攻めで討死、家督は康勝が継ぎ、同年上野国藤岡三万石に転封となった。
春日城は康国寺の背後に聳える標高892.7mの山頂に築かれている。 麓にある康国寺は居館があったところで、康国の菩提を弔う為に松平康勝によって建立された寺院である。
主郭は山頂にあり南背後に土塁を設け大堀切によって尾根を遮断している。北に堀切を挟んで二郭があり、秋葉神社が鎮座している。主郭背後の尾根は四条の堀切で遮断している。
二郭から北東へ伸びた尾根に城域が広がり、山腹にある舞台のある曲輪まで堀切や小さな平段が連なっている。さらに北東の尾根先まで堀切や小郭、竪堀などが残る。
主郭から東へ伸びた尾根にも段々と曲輪が連なり、東端部は北へ竪堀が伸びている。
現在の堀端公民館から西へ行くと旧公民館があり、その南に鳥居が建っている。ここから主郭まで登山道が付いている。(地図)