築城年代は定かではないが鎌倉時代に芦田氏によって築かれたと云われる。
鎌倉時代の芦田氏は滋野氏の分流であったが、村上氏によって滅ぼされた。その後、依田光徳が城主となって芦田氏を称し、依田系芦田氏の居城となった。
天文10年(1541年)芦田信守のとき、武田信虎、諏訪頼重連合軍が佐久へ侵攻し、諏訪頼重によって芦田城は落城した。その後、諏訪氏は武田信玄によって滅ぼされ、芦田氏もまた武田氏に従い信濃先方衆となった。武田氏に従うと春日城を居城とした。
芦田信守は三方ヶ原合戦で活躍し、遠江国二俣城に入城したが、天正3年(1575年)に没した。信守の子が依田玄蕃信蕃で、二俣城で死去した父信守に変わって二俣城を守備し、徳川家康に攻められ半年に及ぶ攻城戦を戦い抜いて降伏開城、高天神城へと退いた。
武田氏が滅亡し織田信長が本能寺の変で倒れると天正壬午の乱が勃発する。上野から侵攻した北条氏によって東信濃一帯は北条方となり、甲斐の若神子で徳川軍と対峙していた。このとき依田玄蕃は佐久で挙兵して各地でゲリラ戦を展開し、北条方の糧道を断つことに成功したが、岩尾城攻めで討死した。依田玄蕃の子は松平姓を賜り、松平康国と称して六万石で小諸城主として抜擢された。
芦田城は芦田川東岸に聳える標高806.0mの山に築かれており、現在は木の宮社の境内となって整備されている。
主郭は山頂にあって高土塁が巡る方形の曲輪で、その一角に木の宮社が祀られている。周囲は同心円状に帯曲輪が多段で巡っているだけで、特に目を見張るような遺構はない。
北側の麓にある畑の間に大きな空堀が山裾を巡っている。さらに北へ少し離れたばょに高土塁と空堀の遺構があり曲輪群を山から切り離すような大規模な遺構で見所である。
道は狭いが、舗装された道が主郭のすぐ下まで続いており、駐車場もある。
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