築城年代は定かではないが矢島氏によって築かれたと云われる。 矢島氏は望月氏の一族で、養和元年(1181年)の横田河原の合戦には木曾義仲の軍中に八島(矢島)四郎行忠の名が見え、承久3年(1221年)の承久の乱でも官軍の中に「やしまの次郎」の名が残る。
南北朝時代になると望月氏一族は衰退し、大井氏・伴野氏の勢力が伸び、この辺りも大井氏の勢力下となった。
矢島城は矢嶋集落の西にある北へ伸びた比高25m程の丘陵に築かれていた。 現在は山全体が開墾されて畑となっているが、段々となった曲輪の跡は比較的残っているのではないだろうか。しかし、主郭を含めて南側に道路が貫通してこの辺りは消滅している。
発掘調査によって空堀や柱穴五十七個、中世の陶磁器などが出土している。
主郭まで農道が付いている。案内板は南側を貫通している道路の南側にある。
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