天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に従い西郷家員が五千石で生実に入封した。 家員の後は忠員、康員、正員と相次いで当主が代わった。西郷正員は里見忠義改易にともない館山城の請け取りの使者を務め、大坂冬の陣では安房を守備、夏の陣では小田原城の守備を務め、元和6年(1620)に安房国東条に一万石に加増転封となった。
寛永4年(1627年)森川重俊が一万石を賜って諸侯に列し生実藩となった。森川重俊は徳川秀忠の近習を務めていたが、大久保忠隣の改易に連座して上野国高崎藩酒井家次にお預けとなった。しかし大坂の陣で戦功を挙げたことから再び秀忠の近習となり、その後正式に赦され大名に列した。生実藩は以後代々森川家が続いて明治に至る。
生実陣屋は中世生実城の一角であった出郭に陣屋を構えていた。生実神社の西隣一帯が陣屋跡であるが、大半は宅地となっている。神社の西側に巨大な空堀があり、その西側の宅地に面して土塁が残っている。これはどちらかと云えば生実城の遺構であろうか。
陣屋の案内板は生実神社にあり、南の道路に面して「森川氏城址」の石碑も建っている。
森川家の菩提寺が近くにある重俊院で、森川家累代の墓所がある。