貞享3年(1686年)大久保忠高によって築かれたと云われる。 大久保忠高は父忠知の家督を相続し、このとき千五百石の遺領のうち五百石を弟忠信に分与し、千石の旗本となる。小姓組番頭から書院番頭、留守居などを経て一万石に加増され八幡に陣屋を構えた。
元禄10年(1699年)上総の所領を近江へ移されたため陣屋は廃された。この大久保忠高の子常春が下野国烏山藩となる。
大久保氏の八幡陣屋は八幡宿駅の北、市原市武道館から満徳寺の辺りに築かれていたという。かつては土塁や堀などが残されていたというが、現状では市街地となって遺構は見あたらない。
八幡陣屋は大久保氏の他に堀氏の八幡陣屋が別の所にあったようであるが、その所在地は不明という。