伝承によれば、浅井氏の家臣で在地の土豪であった東野越前守道義の居城であったという。この「堂木」の名称も「道義」からきたものだと伝えられる。
天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれた。 調略によって秀吉方に寝返った長浜城主柴田勝豊の家臣で長浜衆と呼ばれた山路正国、大金藤八郎らが堂木山砦に布陣していたが、正国は砦を脱走して柴田方へ走った為、その後には木下半右衛門が入った。
堂木山砦は余呉湖の北岸にあり、北東へ伸びた丘陵の先端頂部、標高238mの山頂に築かれており、登山道が整備されている。
主郭は最高所の曲輪Iで土塁囲み、東と北の二ヶ所に虎口を開く。東の虎口1の外側は斜面になっていて通路ははっきりしないが、南の曲輪IIIと接続していたものと推測される。北の虎口4は食い違い虎口で曲輪IIと接続する。
曲輪IIも土塁囲みで東に虎口3を開く。北尾根は堀切7で遮断し、南の主郭Iとの間は食い違いの堀4が入る。虎口3は横堀5に架る土橋スロープを経て、空間Aに至る。空間Aは南を竪土塁と竪堀6、北は曲輪IIの土塁から続く竪土塁で区画した緩斜面空間になっており、堀切7の東端下を経て北尾根と接続することができる。
主郭の南側には浅い堀切3を挟んで曲輪IIIがある。北の曲輪群と比べて加工度が低く、北側は自然傾斜のままで南端は削平し低い土塁を設けている。西側に虎口4があり、土塁が内折れする。
曲輪IVは南端尾根を土塁に加工して西尾根を遮断する堀切1に接続する。北東側には竪土塁と竪堀2を設けて曲輪を形成する。虎口ははっきりしないが北側の谷筋から出入りしていたのだろうか。
堂木山砦の中心部からやや外れた北尾根の先端に曲輪VIがある。尾根を遮断するような高い切岸や堀はないが、尾根先を削り込んで削平し、低い土塁を設けている。東側が開口するのでこの部分を虎口としたものだろうか。
また、南西の峠道の上に曲輪Vがある。この部分も内側を削平して低い土塁を残した小さな曲輪になっている。
南麓にある余呉斎苑(閉館)があり、そのあたりに駐車可能。そこから西へ少し歩いた所にフェンスの開口部がありそこが登口。
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