築城年代は定かではないが南北朝時代に豊田種藤によって築かれたと云われる。
豊田種藤は十二代豊田種長の子で、向山館に居館を構えていた。後に十三代となり、それまでの詰城である一ノ瀬城とは別に長生寺城を築いて居城とした。これには対立していた厚東氏が衰え、大内氏に備えるために一ノ瀬城では位置的に不都合であった為と伝えられる。
これとは別に大内義弘の家臣の橘氏が築城した説がある。案内板によれば、大内弘茂が四王司山城に籠もって大内盛見の攻撃を待ち構えていたとき、家臣の豊田民部允橘滋武とその子の義武・信武・利武などがこの長生寺城で呼応した。応永8年(1401年)大内盛見は九州から攻め上り、大内弘茂を下山城で討つと、翌年この長生寺城に攻め込んで豊田橘氏を攻め滅ぼしたという。
長生寺城は南西に伸びた尾根の南端頂部に築かれており、中腹は長正司公園になっている。
主郭は南端の最高所にあり、南北に長く西側に犬走り付き、それに面して低い土塁が付いている。北尾根には一条堀切があり、その先に小郭を挟んでさらに大きな堀切で遮断している。
主郭の南端から南西側へ伸びた尾根に小郭が階段状に連なり、下の2つの小郭はそれぞれ背後に堀切が付いている。
長正司公園となっている南の山腹には出雲国神西城主神西氏の追悼墓碑がある。播磨国上月城で自刃した神西国通(元通)の遺児景通が母に連れられ京へ逃れ、後に山口村(豊田町)に帰農したことに由来するものだという。
下関市役所支所の北東側にある長正司公園(大藤棚)の山頂が城跡で、公園から簡単に登ることができる。公園の入口は川に面した国道435号線沿いにあり、道標がでている。(地図)