築城年代は定かではないが文明・永正年間(1469年~1521年)頃に朝倉兵庫頭弘詮によってた築かれたと云われる。
朝倉氏は大内家臣陶氏の一族で、吉敷郡朝倉を本貫地とする。
諏訪山城は稲見川が大きく蛇行して流れる地点にある比高50mほどの城山に築かれており、現在は山道が整備されている。
縄張図のI、II、III、IVは現地にある標識に従ったものである。主郭の判断はIかIIか難しいが、IIの方が主郭ではないだろうか。
曲輪Iは北西に伸びた尾根にある二段の曲輪で、北西尾根先を二重堀切1で遮断している。南東部が土塁のようになっているのは、北側が崩落してしまったためかもしれない。
曲輪IIは西端の最高所から東に向かって段々に造成され、北西下に一段腰曲輪を備える。東端部に堀切はなく、南西尾根は二重堀切4で遮断している。
曲輪IIIは曲輪IIの北山腹にあり、現在の登山道は東の麓から北東鞍部の堀切5?を経て、この曲輪に登ってくる。山腹に低い段差で数段の曲輪を造成しており、北側は急坂となる。現在ここから南の曲輪IIに登るルートと、IとIIの鞍部に登るルートがある。
曲輪IVは山頂から緩やかに西に下って稲見川に隣接する崖の上の緩斜面地形で、西側には幅広の土塁地形が確認できる。ただ、この平坦面が正直城郭遺構なのかははっきりしない。曲輪IIから続く竪堀3は下方に土塁を伴っており竪堀自体も北側の方がやや高くなっており、このことから考えると、曲輪IVが立地するところは城外側である。
水ノ手と記されている部分は自然の谷間の上部に堤防を築いて溜池としたものであるが、時代は不明である。
登山道入口は東麓にある民家の脇にあり、舗装された小路を入るとさらに奥に一軒民家があるが、その奥側に諏訪山城入口の標識がたっている。
車は国道から降りたところにある余白に駐めることができる。