築城年代は定かではない。貞応2年(1223年)小野高通が相模国鎌倉から地頭職として下向した。このときに城が築かれたかどうかは定かではないが、小野氏ははじめ古荘氏、ついで神西氏を称し、以後十二代続いた。
神西三郎左衛門元通は尼子氏の重臣となり、尼子十旗の一つに数えられた。しかし、永禄年間(1558年〜1570年)に毛利氏が出雲に侵攻して尼子氏が滅亡すると、元通は毛利氏に降った。毛利に忠勤を励んだ元通は伯耆国末石城主となっていたが、永禄12年(1569年)尼子勝久を担いだ尼子再興軍が決起すると、元通もこれに加わり、最後まで従って播磨国上月城で勝久とともに自刃している。
神西城は十楽寺の南東、那売佐神社のすぐ北にある標高101.3mの高倉山に築かれている。現在は遊歩道が設けられている。
主郭は山頂にあり石碑と案内板が設置され展望が開けている。遺構はこの主郭から北西側にある尾根筋に曲輪が点在しているようであるが、主要な曲輪は北西下の曲輪から北東側に伸びた尾根に展開している。
北東へ伸びた尾根には堀切や鞍部で区画された二つの曲輪群があり、南側の北端には櫓台が残る。北の曲輪から北へ下った尾根に二重堀切があり、城内で最もはっきりとした堀切ではなかろうか。
北西の麓にある十楽寺が神西氏の菩提寺で、神西家十二代の合祀塔がある。
登山道は三つある。菩提寺である十楽寺口(地図)、公園で広い駐車場のある光成口(地図)、主郭に一番近い那売佐神社口(地図)。
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