築城年代は定かではない。 室町時代は亀井永綱の居城で後に尼子経久に従った。 亀井氏は紀伊国の穂積氏の一族で亀井重清が佐々木秀義の娘を娶り、亀井義清の時に出雲国へ下向したという。
その後は本城常光が城主となっていたが、本城常光は永禄3年(1560年)石見国山吹城に籠って毛利軍と戦ったが結局毛利氏に降った。しかし、永禄4年(1561年)本城常光は須佐神社の宝物を奪い、神社領を横領したなどの咎によって毛利元就に誅され、高櫓城はその後開城され毛利氏の城となった。
永禄5年(1562年)元就は熊谷広実を城主とする。広実は永禄12年(1569年)尼子再興軍にも屈せず高櫓城を守り通したが、その後広実は城内で没し子の熊谷元実が継いだが、関ヶ原合戦の後、毛利氏は防長二ヶ国に減封となり、熊谷氏もそれに従って移ったので廃城となった。
主郭部は目田森林公園内にあり、遊歩道が設けられているが、この城はかなり広く波多川に沿って北は国道184号線付近に達する。
主郭部には公園となって東屋が建ち、岩で小高くなった所に社が奉られている。 公園とはなっているものの、大半は熊笹に覆われており、土塁や畝状竪堀群はまったく見ることができなかった。 すり鉢状の公園の南側に櫓のような建物があるが、ここから南側へも削平地が残っているらしいが、一番上の削平地と北側に付属した土塁以外はここも熊笹に覆われて見ることができない。
公園をあとにして東側の県道39号線に出る途中に、城主熊谷実広の墓地があった。