築城年代は定かではない。
稲村二階堂氏の居城で、南北朝時代には北朝方の拠点となった。北朝方奥州探題吉良貞家は多賀城を占拠して宇津峰城に籠る南朝方と対峙したが正平6年・観応2年(1351年)に敗れ、一旦中村城に逃れ更に南下して小高館に入り、飯岡八幡宮を参拝して戦勝を祈願し稲村城へ入った。翌正平7年には多賀城の奪還に成功して宇津峰城に籠った南朝方を取り囲み、一年以上に渡る激戦を制してこれを落とした。
稲村城は稲川の北の丘陵に築かれており、稲川の南には稲村御所がある。
稲村城は東側の道路に面して南北に伸びた丘陵にあり、北側に堀切を設けて南に二段の削平地を列べている。現在この辺りは北側が薮に覆われており明瞭な堀切は確認できず、南側の曲輪も切岸加工が明瞭ではなく、平坦面も傾斜している。谷を挟んで西側に周囲に土塁が巡る曲輪があり、ここは土塁が明瞭に残っている。曲輪内部は平坦ではなく傾斜している。
山へ入る道がわからず、東側の道路沿いから山へ取り付いたが内部には道が有り、峠を登りきった所に出てきた。
最寄り駅(直線距離)