応永6年(1339年)頃に足利満貞によって築かれたと云われる。 足利満貞は鎌倉公方足利満兼の弟で、応永6年(1339年)陸奥・出羽統治のために陸奥国岩瀬郡稲村に下向し稲村公方と呼ばれた。また同時に兄満直も陸奥国安積郡篠川に下向し、篠川公方と呼ばれた。
稲村は二階堂氏の所領で、稲村二階堂氏・須賀川二階堂氏・安積伊東氏などが周辺にいた。応永20年(1413年)伊達持宗が反乱を起こし鎌倉からも出兵して戦ったが討伐できずに引き上げている。その後、永享の乱が起こり、篠川公方は幕府方、稲村公方は鎌倉府方と分裂して対立し鎌倉府方は敗れた。鎌倉府方の武将は鎌倉永安寺に入って剃髪して上杉憲実を通じて幕府方に助命を嘆願したが聞き入れられず、稲村公方満貞、稲村城主二階堂伊勢入道、二階堂民部少輔らも自害して果てた。
稲村御所は釈迦堂川に稲川が合流する地点の南西の丘陵に築かれている。
現在畑となっている御所址は周囲に土塁が巡り、北側中央に虎口が開く。虎口は北側の空堀へと通じて土橋を渡り、北の曲輪へと通じている。北の曲輪はやや平坦ではあるが狭く土塁はない。
赤城神社から取り付いたが、南側より畑に通じる道が付いている。
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