元禄10年(1697年)頃に三枝守輝によって築かれた。
三枝守輝の祖は甲斐の武田氏に仕えていたが、武田氏滅亡にともない徳川家康の家臣となり、江戸時代初期には安房国三枝藩として一万石の大名であった。
寛永17年(1640年)三枝守昌が没すると家督は嫡子三枝守全が継いだが、このとき弟頼増に三千石を分知したため、三枝守全は七千石の旗本となり大名ではなくなった。
三枝守輝は家督相続のさい、弟守仍に五百石を分知して六千五百石となり、禄は蔵米支給であったが、幕府の改革により元禄10年(1697年)に陸奥国岩瀬郡長沼と伊豆国賀茂郡であわせて六千五百石の知行地が宛行われた。これにより岩瀬郡の所領を統括するために築いたのが今泉陣屋である。
今泉陣屋は現在の「むそう庵」という公民館のような施設があるところに築かれていた。「お濠跡」とされるものが残っているらしいが確認できなかった。