築城年代は定かではない。
天文6年(1537年)には葦名盛氏が二階堂照行領であった松山城を攻め、永禄5年(1562年)8月には田村氏が攻め落として入城したが、二階堂氏によって取り囲まれ田村氏は敗退した。また、永禄9年(1566年)葦名盛氏・盛興父子が松山城より横田館を攻め横田氏を捕えたと云う。
松山城は横田館の北東数百mの所にある標高342.3mの山に築かれている。 現在は岩崎山史跡公園として南の丘陵のみ整備されている。
史跡公園の第1展望台の所に松山城址の標柱が建っているが、主郭部は更に奥の山頂にある。
連郭式の山城で北西から南西に伸びた尾根に沿って曲輪が連なり、山頂から東へ伸びる尾根にも曲輪がある。大半の曲輪は削平のみであるが、山頂付近に土塁が巡らされた曲輪が残る。