築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に二階堂行続によって築かれたと云われる。
須賀川二階堂氏の居城として代々続くが、二階堂氏は永禄年間(1558年〜1570年)頃に蘆名氏に従うようになった。二階堂盛義は蘆名氏に降ったとき嫡男盛隆を黒川城に人質として差し出していたが、蘆名盛興が天正2年(1574年)に早世すると、蘆名盛氏の養子となって蘆名盛隆と名乗った。
二階堂盛義が没した後は蘆名盛隆が二階堂氏も統合する形となり、須賀川城には家臣の須田盛秀が城代として入った。その後、蘆名氏は伊達政宗によって滅ぼされ、須賀川城もまた伊達氏によって攻め落とされた。
伊達氏の所領となったあとは石川昭光に与えられたが、秀吉による奥州仕置きによって会津に蒲生氏郷が入ると、田丸中務具直が三万石で城主となった。慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に入った後は千坂景親、二本松右京らが城代となった。
須賀川城は現在の二階堂神社一帯に築かれていた。二階堂神社のある所が本丸、東から南にかけて二の丸があった。
二階堂神社の南西に長松院があり、その裏(西側)に須賀川城の土塁と空堀の遺構が現存している。