築城年代は定かでなはい。旗本小笠原氏の陣屋である。
初代小笠原吉次(宗忠)は信濃守護職小笠原長時の末裔で、松平家忠に仕えていた。家忠没後は家康の子忠吉が継いでおり、吉次はこれを補佐している。天正18年(1590年)徳川家康の関東移封にともない、吉次は武蔵国都筑郡池辺に所領が与えられた。これが小笠原氏と池辺の初めての繋がりとなる。
その後、松平忠吉が武蔵国忍藩十万石になると付家老となり、尾張国清須五十七万石の領主になると、付家老として尾張国犬山二万七千石の領主となっている。
慶長12年(1607年)松平忠吉が没すると吉次の嫡男小笠原吉光が殉死している。忠吉のあとは徳川義直が継ぐこととなり、吉次は下総国佐倉二万八千石へ転封、翌13年(1608年)には常陸国笠間三万石に転封となる。
慶長14年(1609年)松平忠吉の旧臣の所領について吉次が幕府に訴えられ、これによって改易、播磨国姫路藩に仕えていた次男長光も連坐して追放となった。その後、放免されて吉次と長光は旧領である池辺に住み、子孫は旗本として存続した。
池辺陣屋は宗忠寺の西にある大陣屋・小陣屋と呼ばれる地に築かれていたが遺構はない。
宗忠寺は殿様寺と呼ばれ、父長隆のために建立したのが始まりと伝えられており、門前に宗忠寺縁起を刻んだ石碑がある。