築城年代は定かではない。
文明8年(1476年)長尾景春の乱で、景春方の武将として小机城主矢野兵庫助が登場する。文明10年(1478年)景春方の豊島泰経が太田道灌に攻められ敗走する中で最後に籠もったのが小机城で、道灌は亀之甲山陣城に陣を構えて包囲し城は落城した。
永正13年(1516年)には北条氏が扇谷上杉氏の家臣で新井城の三浦道寸を攻め滅ぼすと、小机城には城代として笠原信為を置いた。その後、小机衆として統治され、北条氏堯、北条三郎(上杉謙信の養子となった三郎景虎)、北条氏光が城主となった。
小机城は鶴見川南岸にある台地の北端に築かれている。現在は小机城址市民の森として整備されている。
小机城は第三京浜道路が南北に走り城を東西に分断している。南には横浜線が通っており、その南側の部分には古城が残るという。
第三京浜道路の東側部分が主郭部で、中央南北に伸びた大土塁を挟んで東西に二つの曲輪がある。この中央の土塁部分が一番高くなっており、これらを取り巻くように大きな空堀が巡らされている。
西曲輪が本丸とされ、南東隅が東へ張り出した方形の曲輪で周囲に土塁が巡る。 虎口は東へ張り出した部分と南にあり、張り出した先は土橋で大土塁と繋がり、南虎口も土橋が架かる。
東曲輪は南北に長い楕円形の曲輪で南西隅に櫓台が残る。周囲は土塁が付いていたと云われるが開墾によって消滅し、部分的に残存するのみである。
第三京浜道路の西側部分のも城域とされ、畑などになっているが、櫓台のような土壇が残り、その上に富士仙元大菩薩の石碑がある。
公園の入口は金剛寺の東側の道路を北上し、横浜線を越えた北側の交差点を西へ入った先にあり、宅地の脇から登る道が付いている。(地図)
入口付近まで住宅地であるため、駐車スペースはない。
最寄り駅(直線距離)