慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の功によって一万石を領した織田長孝によって築かれたと云われる。
長孝は織田信長の弟長益(有楽斎)の長男ではあるが正室の子ではなく庶長子で多芸郡金屋村で五百石を領していた。関ヶ原合戦で戸田勝成を討ち取る戦功を挙げ美濃国大野郡内で一万石を賜り、野村の地に邸宅を構えたという。
長孝系織田氏は、寛永8年(1631年)長孝の子織田長則が嗣子なく没して改易となった。
織田河内守邸は野古墳群のあたりに築かれていた。ポコポコと残る古墳群は庭の築山として使われたとも伝えられており、その東側にある田畑の一角に標柱が建てられている。