築城年代は定かではないが南北朝時代に土岐氏の一族によって築かれたと云われ、興国4年(1343年)に土岐頼清の子頼雄が築いて揖斐氏を称したのが始まりとも云われる。
代々揖斐氏の居城として続いていたが天文16年(1547年)揖斐光親が城主のとき斎藤道三によって攻められ落城したという。
その後、斎藤氏の武将堀池氏が城主となったが、天正11年(1583年)稲葉一鉄によって攻められ落城した。
揖斐城は揖斐川町役場の北に聳える標高223mの城台山に築かれている。現在は遊歩道が整備されている。
揖斐城は山頂の主郭を中心に東西に伸びた尾根に曲輪を連ねている。南の一心寺から登ると神社が祀られた広い段曲輪に至る。この四段ほどの段曲輪を登ると主郭に出る。主郭は東西に長く、東端には大きな堀切に土橋を架け、内側は枡形状になった虎口を備える。ここから東へ二の丸が続き、その先には大手とされる虎口があり、南に開口する。その先にはさらに三の丸、出丸が続き、東端は大堀切で土橋が架かっている。
二の丸の北側山腹に腰曲輪があり、その下方に土塁を伴う横堀状の遺構がある。本丸の北側には数条の竪堀、出丸の北側面にも不明瞭ながら竪堀らしき地形が残る。
二の丸の南山腹には現在も水が沸く井戸がのこる。
登山道は麓から登る場合、三輪神社から。山腹にある一心寺へ向かう林道の途中にも駐車場があり、一心寺経由で遊歩道が整備されている。
最寄り駅(直線距離)