築城年代は定かではないが天正年間(1573年〜1592年)はじめに稲葉良通(一鉄)によって築かれた。
曽根城主稲葉良通が、後川の山上に存在した清水城主加納江津右衛門を攻め、江津右衛門は自害、その子武蔵右衛門は良通に降った。その後、良通は山上の城を破却して平城である清水城を築城し、天正年間(1573年〜1592年)に曽根城より移り住んだ。
天正16年(1588年)良通が没すると、曽根城は嫡子稲葉貞通が継ぎ、清水城は長子ではあったが庶流の稲葉重通が継いで一万二千石を領した。
慶長3年(1598年)重通が没すると稲葉通重が家督を継いだ。通重は関ヶ原合戦でははじめ西軍に属していたが、東軍に寝返り所領を安堵され、一万二千石の大名となった。しかし、慶長12年(1607年)京都での狼藉により改易となり、清水藩は廃藩となった。
清水城は現在の清水小学校の辺りに築かれていた。 小学校の校舎付近は周囲より一段高くなっており、東側の正門脇に標柱がある。この標柱の下の石垣が遺構である。2010年には校門脇に案内板があったのだが、2016年に再訪したときには見つからなかった。
北の山の中腹にある月桂院には稲葉一鉄夫妻、貞通室、貞通後室の墓(県指定史跡)があ。また同所には「一鉄の陣鐘」(県指定重要文化財)もある。
表門(移築 城門)