築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)頃に鷹司冬基によって築かれたと云われる。鷹司冬基は関白鷹司兼平の子鷹司家平の後裔で、大納言忠経の子冬基が美濃の土着して長瀬城を築いたという。
鷹司氏は天文16年(1547年)織田信秀の軍勢と谷汲の牧野で戦ったが敗れ、政光・光政兄弟は討死、長瀬城も落城した。正光の子忠政は幼小であったため井ノ口に移り、斎藤道三の庇護を受けて今井家で養育され、今井忠康と名を改めた。
長瀬城は谷汲口駅の北東500m程の台地の上に築かれていた。本丸とされる「殿屋敷」は土塁や堀が巡った方形区画であったが樽見鉄道によって分断され、その後の耕地整理によって遺構は消滅している。北背後の山には、東から尾崎砦、大山砦、長山砦、丸山砦、西出丸といった砦跡が東西に並んでいたようであるが、めぼしい遺構は見あたらない。
現在は鷹司家の菩提寺であった長山寺跡に鷹司一族の墓が残るのみである。
根尾川谷汲温泉を目指すとわかりやすい。根尾川谷汲温泉の駐車場の北側にある山裾に細い車道があり、これを東へと進んでいけば一族の墓がある。
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