築城年代は定かではないが康暦年間(1379年〜1381年)頃には河野氏によって築かれていたと考えられている。
応安元年・正平23年(1368年)豊後国より帰国した河野通直は、翌年讃岐国細川氏と宇摩郡・新居郡で対峙する。細川勢が生子山城を攻め落とすと河野氏は高峠城に籠って細川氏を撃退した。
康暦元年・天授5年(1379年)細川氏は再び大軍を率いて伊予に侵攻し高峠城は落城。それ以後石川氏が実権を握り細川氏に属する。
弘治年間(1555年〜1558年)に城主石川道清が三好長慶の娘を娶ると、石川氏は三好氏に通じ、元亀3年(1572年)長慶は石川通清を案内人として伊予に侵攻する。河野通吉はこれを察知して高峠城に攻め寄せ、三好勢を阿波に撃退した。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で小早川隆景が伊予に侵攻する。高峠城主石川虎竹丸はまだ幼く、重臣達によって協議した結果、金子城主金子元宅の意見が通り高尾城に籠って小早川隆景と対することとなった。
元宅は金子城を弟金子元春に守らせ自身は総大将として高峠城に入り、宇高城主高橋政輝を高尾城に籠らせた。小早川隆景率いる二万とも三万ともいわれる軍勢が怒涛の攻撃を仕掛け、元宅らは良く防戦したが多勢に無勢で城に火を放って自刃した。 この時高峠城主石川虎竹丸を土佐へ逃し、全員野々市原に討って出て討死にした。