築城年代は定かではないが南北朝時代に築かれたと云われる。 築城者としては松木伊賀守通村、あるいは松木越前守景村の名が伝えられるが詳らかではない。
正平24年・応安2年(1369年)河野氏の一族一条修理俊村が七百余騎を率いて生子山城に立て籠もり、細川氏の軍勢と度々戦ったが、敗れて落城した。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐では、伊予へ侵攻した小早川隆景の軍勢を迎え撃つ為、城主松木三河守安村は金子山城主金子元宅に従い高尾城へ入り、野々市原の合戦で討死した。生子山城には鈴木四郎太夫重保ら少数の兵しか残っておらず、ときを同じくして落城したという。
生子山城は足谷川と西谷川との間にある山塊が北へ伸びた標高300.4mの山頂に築かれている。非常に険しい山であるが、道は整備され、北端付近には近年展望台も整備されている。
主郭は山頂にあり周囲より一段小高く、切岸加工された削平地で、南側には城主を祀った「城主大明神」の碑がある。そこから南へ降りた岩尾根に堀切3がある。
北下には南北に細長い曲輪ii、さらに鉄塔があって北端が展望所となった曲輪iiiがある。鉄塔の南側は東側が堀状に削り混まれており、おそらく堀切2あったと思われる。 北端から北下に段曲輪があり、その下部には西側に竪堀がある。ここもおそらく崩れて埋もれた堀切1であったと思われる。
城山の尾根の先端は西へ転じ、その先端に「エントツ山」と呼ばれる別子銅山由来のエントツのある山がある。城郭大系ではここを生子山城とし、地図でも「生子山城跡」と表記されているものもあるが、遺構はない。
北麓にある山根グラウンドに無料駐車場がある。登山道入口は複数あり、グラウンドから登る道もあるが、西の県道からエントツ山経由で登る入口がわかりやすい。
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