築城年代は定かではないが南北朝時代に村上義弘によって築かれたと云われる。
村上義弘は村上水軍の祖とされる人物である。父は村上頼員とされ、この大島で出生したと伝えられる。 元弘3年・正慶2年(1333年)村上義弘は土居氏・得能氏とともに義兵を挙げ、備後の鞆の津(鞆の浦)で北条軍を撃ち破り、その後の六波羅探題攻めにも参戦して戦功を挙げた。
村上義弘の没年は定かではないが暦応3年(1340年)頃といわれ、男子はすでに六波羅探題攻めで失っていたことから、北畠顕家の子師清が義弘の女を娶り家督を継いでいる。
天正14年(1586年)頃には村上氏の家臣東氏が新居郡大島を領しており、小早川隆景によって大島城は接収され、替わりに弓削・岩城を与えられたという。
新居大島城は燧灘に浮かぶ大島にあり、南へ張り出した丘陵に築かれている。 本丸は標高70m付近の南端で、そこから東西二つに分かれた尾根が城域とされる。西側は「城の鼻」と呼ばれ二ノ丸があった所という。
本丸は標高70m程の南南東へ伸びた尾根の南端にあり、方形に近い石積の土壇を設け、その周囲を削平している。北側の尾根にも門跡のような地形が残っているが、明瞭な堀切は見あたらず、北端の境界は不明である。
二ノ丸は「城の鼻」と呼ばれる西側の尾根にあり、南端に観音堂が建つ。観音堂は南端の曲輪と思われ、北側に堀切跡と思われる窪地があり墓地となっている。そこから北へ登っていくと削平地が段々と連なり、二ノ丸と思われる明瞭な切岸を持つ曲輪が堀切のような窪地を挟んで南北二郭ある。この上は木がないため背丈を超える草が茂っており、曲輪の形状は不明である。西側の山腹に帯曲輪と思われる段が付いている。
二ノ丸から谷を挟んで東側にある尾根も城域とされる。大元神社から道が付いており、かつては公園であったというが現状は雑木林で、曲輪の形状も不明で削平している所もあるが、切岸は不明瞭である。この尾根の北端部に大堀切があったとされ、「愛媛県中世城館跡」によると「県内でも最大規模の堀切があり、象ヶ森城に匹敵する。」と記されている。しかし、ここも現状は道路と畑地になってしまっている。
村上義弘の菩提寺は今治市吉海町の高龍寺(地図)で、広島県尾道市因島中庄町にある金蓮寺(片刈城を参照)には位牌が残るという。
新居浜市の黒島港(地図)から定期船が出ている。一時間に一本くらいあり、料金も往復120円と安い。大島港から歩いて行くことができるので、車は港周辺に置いて行くのがよいだろう。
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