築城年代は定かではないが南北朝時代に築かれたと云われる。
城主は藤田氏で天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐のときの城主は藤田山城守芳雄、藤田大隅守俊忠父子で、小早川隆景が伊予に侵攻すると金子城主の金子元宅とともに高尾城に入り、野々市の戦いに敗れた。この戦いで父芳雄は討死、子俊忠は逃れて後に帰農したと云われる。城はこの後落城し廃城となった。
岡崎城は国領川に面した標高84.1mの郷山に築かれている。現在は山腹に鉾前神社の境内があり、山の南側は土取によって消滅しており遺構の残存は不良である。
現状、山頂部に主郭となる曲輪iがあり、北尾根に曲輪ii、曲輪iiiと続き、その下方に鉾前神社の境内となっている平地がある。曲輪iiと曲輪iiiの間は堀切であった可能性が高く、左右に竪堀が残されている。また曲輪iiiの東山腹には畝状竪堀群があり、北側側面も覆われていた可能性があるが、後世の改変によって側面が削られており不明である。
主郭の東側は土取によって尾根の南側が消滅しているが、二重堀切と内側に一条の竪堀が確認できる。その先から北へ伸びた尾根に土橋を残した堀切と竪堀が三条ほど確認できるが曲輪は存在しない。『愛媛県中世城館跡』に掲載されている図面では主郭の東側に「台所」と記された曲輪を描いており、現状の堀切の形状から曲輪があった可能性は高い。
曲輪iiの西側面に隅石が落とされた石垣が残り、形状から虎口であった可能性がある。現状石積(石垣)はこの部分しか確認できない。
曲輪iと曲輪iiの一部に浅い溝が刻まれているのが気になる所ではあるが、後世の改変であろうか、はたまた破城に関わるものだろうか。
北麓の薬師堂は藤田氏の祈願所で宝篋印塔と五輪塔がある。宝篋印塔はその様式から鎌倉時代のものと推測されている。また、金子城の麓にある慈眼寺に藤田大隅守俊忠の墓がある。
県道133と県道336号線との城下橋東交差点から北東へ100m程行くと、右側に神社の参道が見える。この鉾前神社の参道から山頂へ道が付いている。
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