詳細不明。天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で渋柿城主であった薦田義清は金子氏とともに高尾城に立て籠もり、野々市原で小早川軍と戦って討死したという。
渋柿城は赤星山から北へ派生した尾根の一つ、標高275m程の山に築かれている。
主郭は山頂にあって南北に長く南端から東側に掛けて土塁が巡り、西側面には一部石積が残されている。主郭の北下に曲輪iiがあり、西側に曲輪iiiと結ぶスロープがあって入口に土塁がある。一方東側にも方形の凹みがあり、東下へ続くようであるが、この部分は後世に削られた可能性もあって不明である。曲輪iiの北下に曲輪iiiがあり、ここにはかつて鉄塔が立っていたようであるが現在はない。
主郭部から南へ伸びた尾根は天然の細尾根となっているが、主郭背後の堀切9から連続して堀切13まで多くて五条の堀切状地形が続いている。
主郭の北西下は浅いながらも横堀3であったことがうかがえ、西端は竪堀4へ変化して長く伸び、その脇にももう一条竪堀が付随して二重竪堀となる。一方東側は竪堀5、竪堀6、竪堀7と間隔を開けて竪堀が続く。この起点は帯曲輪状になった部分から始まっており、本来は木橋を掛けていたことが想像できる。
主郭から北西に伸びる現在の登山道が続く尾根には間隔を開けて曲輪iv、曲輪vを伴う横堀状地形がある。上段の曲輪ivは緩斜面で曲輪としては不十分であるが切岸が高く、下方は現状横堀となっていないが東端は竪堀2に繋がっていたことから本来ここも横堀であった可能性がある。下段の曲輪vは中央に桝形があり、その下方は横堀で東西両端は竪堀として落ちている。
愛媛県には曲輪の切岸下に弧状の横堀を設け、その末端を竪堀として落とす遺構が使われている城が多く、一つの特徴と言えるであろう。この渋柿状には山腹に間隔を開けて三ヶ所の同遺構があり、堅固な山城といえるだろう。
松山道の南側にある側道沿いから一段高いところに墓地がある。この墓地の西側に沢沿いに入る道があり、少し入った所から沢を渡ると山道がある。これを登って行けば主郭に達する。墓地の所に駐車可能。
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