龍造寺隆信の弟龍造寺長信が梶峰城主となって多久を領し、その子家久(後に多久安順)のときに佐賀藩多久邑主となった。多久領は二万一千七百石余の知行があり、多久の城下にはその家臣が住んだ。
多久氏は在地領主であった多久氏を前多久氏、龍造寺長信の子安順からの多久氏を後多久氏と呼んでいる。
後多久氏は佐賀藩鍋島家の親類同格で佐賀城内にも多久屋敷を構えていた。多久氏の当主は佐賀城の多久屋敷に居たため、この多久御館はほとんど利用されなかったようである。
多久御館は西渓中学校、市立病院の辺りに築かれていた。市街地化が進んで遺構はないが、館の中心である「御館」は中学校の東の辺りで現在は畑や宅地となっている。