建久4年(1193年)多久宗直が築城し居城としたことに始まるとされる。
多久氏は摂津国難波の多久を発祥とする多久氏と龍造寺長信を祖とする多久氏がおり、一般的に前者を前多久氏、後者を後多久氏と呼ぶ。
梶峰城を最初に築いたのは前多久氏の宗直ではじめ多久氏館を築いたが、その後にこの梶峰城を築いたという。この多久氏が最初に築いた梶峰城は後に龍造寺長信の館となった部分とする説もある。
明応6年(1497年)少弐政資が梶峰城主の多久藤兵衛宗時を頼って落ちてきたが、宗時に拒否され専称寺で自害する事件が起こる。また、政資の子息資元も天文5年(1536年)大内義隆の圧迫により専称寺で自刃している。
永禄年間(1558年〜1570年)頃になると多久氏は有馬氏の勢力下に入るようになり、永禄6年(1563年)有馬氏に従い小城丹坂合戦で龍造寺勢と戦って敗れ、勢いに乗じて多久へ乱入した龍造寺軍によって梶峰城も落城した。
梶峰城を奪った龍造寺隆信は弟長信を梶峰城主としたが、永禄11年頃には長信は小曲城へ移り、変わって小田鎮光が梶峰城主となった。元亀元年(1570年)大友の軍勢が佐賀へ押し寄せると梶峰城の小田鎮光は大友氏に寝返る。しかし今山合戦で龍造寺軍が大友軍を撃破すると、すぐさま鍋島直茂が梶峰城を奪い返し、再び龍造寺長信が城主となる。
鍋島氏が佐賀藩主となった後はその家老職を務めて二万一千七百石の多久領主となり、多久氏と名乗って多久御館を築き以後明治まで続いた。
梶峰城は多久市郷土資料館の南背後に聳える標高201mの城山に築かれている。
梶峰城は城山の山頂部にある主郭と北西尾根の山腹(標高90m付近)にある曲輪の二つが主で、規模の割に曲輪の数が非常に少ない。しかしながら主郭から伸びる北、東、南東などの各尾根には二条以上の堀切を設けて遮断している。北西尾根には堀切がないのだが、その下には山腹の曲輪があり、その辺りには比高70mもあろうかという竪堀を落としている。
主郭は南北に長いが中央がやや細くくびれている。この部分に巨大な穴があり、実質的に南北二つに分かれている。この穴は江戸時代にはあり井戸ではないかと云われているが謎である。江戸時代からあったことが分からなければ、高射砲などの跡で、北西の竪堀はそれを作るときに設けられたものではないかとも思えるほど謎の遺構である。
梶峰城には北の砦といわれる雄城、南の砦といわれる雌城があるが、雄城は遺構に乏しく、雌城は遺構はあるものの本城よりは古い時代の遺構と思える。
多久市郷土資料館に梶峰城などの模型が展示してある。梶峰城へは整備された道はないが、龍造寺長信館から南の尾根をたどると作業林道があり、それを登り詰めた所は城域に入っている。
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