慶長6年(1601年)堀秀治によって築かれたと云われる。それ以前に上杉景勝が築いた糸魚川城があったとも云われるが、その場所は定かではない。
慶長3年(1598年)上杉景勝の会津移封にともない、越前国北之庄より春日山城に入封した堀秀治は、堀備中守清重を根知城に置いた。その後、根知城を廃した秀治は清崎城を築いて堀左衛門を置いた。
堀氏が改易となった後には、高田藩主松平忠輝の家臣松平筑後守信宗が一万六千五百石で清崎城主となり、その子松平信直と続いた。
松平忠昌が高田に入封となると、付家老の稲葉佐渡守正成が二万石を領して清崎城主となった。寛永元年(1624年)松平忠昌が越前国福井へ転封となった際に正成はこれに同行せず出奔し、蟄居が命ぜられた。その後正成は寛永4年(1627年)に下野国真岡で二万石で大名として復活している。
稲葉正成の後は、高田藩主となった松平光長の家老荻田主馬長繁が一万四千石で城代となり、荻田隼人・荻田本繁と荻田氏が城代として続いたが、延宝9年(1681年)松平光長は改易となり、清崎城は幕府に接収され破却廃城となった。
その後、糸魚川は天領として続いたが元禄4年(1691年)に日向国延岡より有馬清純が5万石で入封する。清純は元禄8年(1695年)に越前国丸岡へ移封され再び天領となった。
元禄12年(1699年)本多助芳が出羽国村山から1万石で入封、しかし、享保2年(1717年)に助芳は信濃国飯山へ移封となった。替わって糸魚川には松平直之が入封、糸魚川陣屋を構えた。
清崎城は現在の糸魚川市役所一帯に築かれていた。 明確な遺構はないが、清崎神社から天津神社周辺の池が堀の名残と云われる。