築城年代は定かではない。戦国時代には上杉氏の家臣山本寺氏(三宝寺(さんぽうじ)あるいは三本寺(さんぼんじ))の居城であった。山本寺氏は越後守護上杉氏の庶流で、上杉房朝の弟朝定より分かれたとされるが、定かではない。
山本寺定長(景定とも)は、上杉謙信が小田原北条家から養子に迎えた上杉三郎景虎の守役を務めた。この事から謙信没後に勃発した御館の乱で定長は三郎景虎に味方し、弟の山本寺景長(孝長)は上杉景勝に味方し兄弟で敵味方に分かれた。御館の乱は景勝の勝利となり、定長は不動山城を捨てて出奔、不動山城は弟の景長が継いだ。
その後、景長は越中国魚津城の守備を命ぜられ在城していたが、天正10年(1582年)織田信長の家臣柴田勝家の猛攻により落城、景長は戦死した。
不動山城は早川北岸に聳える標高447.5mの不動山山頂に築かれている。
主郭は山頂にあり無線中継施設が建っている。北西下に二郭があり、北西隅は一段小高くなっている。二郭の南西下に三郭がある。主郭から南東に伸びる尾根沿いに土塁があり、二条の堀切によって遮断している。
南西下の要害集落には「御殿屋敷」と呼ばれる地があり、土塁が残っている。ここから登ると烽火場(犬倉)に至り、南西の山裾を回り込んで三郭に至る道がある。この道は途中いくつかの竪堀によって遮断されている。またこれとは別に主郭から南西に伸びる尾根に至る道も付いている。
国道8号線から県道270号線に入り南下していくと不動山への道標が出ている。越の集落に入ると道は細くなるが、道標に従って上がっていくと農村公園の駐車場があり、ここに駐車できる。
最寄り駅(直線距離)