築城年代は定かではないが鎌倉時代後期に小野寺道定によって築かれたと云われる。 道定は稲庭城主小野寺経道の三男である。
文禄年間(1592年〜1596年)頃には三春信濃守、天文年間(1532年〜1555年)頃には八柏大和の二男孫七郎が小野寺孫七郎と名乗り湯沢城主となっていた。
文禄4年(1595年)最上義光は楯岡豊前守満茂を大将として湯沢城へ侵攻、小野寺孫七郎・孫作兄弟は最上の大軍と激戦を交えたが、横手城主小野寺義道は援軍を送ることができず、孫七郎・孫作兄弟は見殺しとなり湯沢城は落城した。
湯沢城を落とした最上氏は楯岡満茂を湯沢城主とし小野寺氏への押さえとした。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で小野寺氏は当初徳川家康に従って最上氏を支援していたが、上杉軍が最上領に侵攻し長谷堂城で激戦を交えるに至り、長年に渡り最上氏と敵対していた小野寺氏は最上方を離反して上杉方となった。関ヶ原において東軍が勝利すると、小野寺氏は改易となった。
関ヶ原合戦後、常陸国より佐竹氏が秋田へ入封。佐竹氏は湯沢城代として佐竹南家三代佐竹義種を置いたが、元和6年(1620年)一国一城令により廃城となった。
湯沢城は湯沢市街地の南東にある古館山に築かれており、現在は中央公園として整備されている。
湯沢城は標高220m余りの山頂に主郭を置き、南東に馬場、北西に見張り台、北に二ノ丸を配しており、規模は東西約400m、南北約650m程である。全体的に曲輪の規模が大きく、切岸も高く明瞭である。
主郭は東西に長く東端に「五社壇跡」呼ばれる高台があり、城主が祈願した所と云われるが、櫓台のようである。この背後には堀切があったようであるが、現在は余り明瞭ではなく、そのまま背後にある馬場へと続く。
主郭の南東にある馬場はその名が示す通り、長く広い曲輪で東端部にl字に土塁が付いている。
主郭の北西の尾根先にある物見台は八幡神社の上にあり、城の西端に位置して城下を見下ろす。北の尾根を降りていくと二ノ丸との間に大きな堀切がある。二ノ丸は標高190mから200mで東北東へ延びた尾根にある。
登山道はいくつかある。湯沢市役所の南側に中央公園の入口があり、登り口の脇に佐竹南家の門が移築されている。林道の終点まで車で駐めることできる。(地図)
西の山腹にある清涼寺は佐竹南家の墓所があり、ここからも登ることができる。(地図)
背後の馬場のすぐ側に裏門から湯沢高校の方に通じる舗装された林道があり、入口の脇に駐車スペースがある。ここから入ると殆ど登ることなく主郭に至る。(地図)
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