築城年代は定かではないが小野寺氏によって築かれたと云われる。 小野寺氏は下野国都賀郡小野寺郷発祥で藤原秀郷流を称す。小野寺道綱・重道父子は文治5年(1189年)の奥州合戦の功により出羽国雄勝郡の地頭職となった。
小野寺氏の雄勝郡入部に関しては詳らかではなく、建久4年(1193年)頃に小野寺重道、または建長年間(1249年〜1256年)の小野寺経道など諸説ある。
小野寺氏はこの稲庭を拠点として大館、西馬音内城、湯沢城などに一族を配して勢力を拡げ、戦国時代には沼館城へ居城を移したが、その後も稲庭城には小野寺氏の一族が居城した。
文禄4年(1595年)雄勝郡に侵攻した最上氏は湯沢城を落とし、岩崎城を占拠した。翌文禄5年(1596年)にはこの稲庭城も最上氏に攻められ落城した。
稲庭城は皆瀬川東岸の標高352.1mの山頂に築かれている。 現在二ノ丸に模擬天守の形をした今昔館が建ち展示場となっている。
模擬天守のある西端から北へ伸びた尾根部が二ノ丸、東の標高352.1mの山頂に本丸、そして本丸の北東の尾根にも一郭ある。
二ノ丸へは車道が付き(一般車両通行禁止)模擬天守も建っているため、だいぶ地形が変わっているが、本丸へ通じる尾根に堀切が残っている。
本丸は山頂を中心に削平地が広がり北、西、南へわずかな段が付いているが、不明瞭な削平地となる。南尾根はそれほど急峻ではないが堀切は見あたらない。北尾根に一条堀切があるが、北東尾根側にある曲輪との間には堀切はない。
北東尾根の曲輪は東西二段で北尾根に二条の堀切、東尾根にも二条の堀切で遮断している。
南の小沢集落にある広沢寺は小野寺氏の菩提寺で、小野寺氏の墓碑がある。
国道398号線沿いに二ノ丸へ通じるスロープカー乗り場がある。ここから登山道も整備されており、歩いて登ることもできるが、二ノ丸にある今昔館の入館料とセット料金になっている。
二ノ丸から本丸へは遊歩道が設置されており、簡単に行くことができる。
最寄り駅(直線距離)