築城年代は定かではないが佐々木綱村によって築かれたと云われる。 佐々木氏は近江源氏佐々木の一族と云われ、佐々木綱村のとき近江国より出羽国へ下向し、仙北の小野寺氏の客将となったという。
鮭延城の築城に関しては諸説あり定かではないが、佐々木氏は当初岩鼻館を居城としていた。しかし、庄内の大宝寺氏との戦いで敗れ、当時幼小であった秀綱は大宝寺氏に捕らわれて庄内へ連れ去られ、岩鼻館周辺の所領を失った。その後、佐々木氏は真室郷へ退き鮭延城を築き居城としたと云われる。
天正9年(1581年)鮭延秀綱のとき最上義光の攻撃を受けて降伏、その後は最上氏に従った。鮭延秀綱は以後、最上氏北方の拠点として小野寺氏などとの戦いで戦功を挙げた。
慶長5年(1600年)上杉景勝が最上領に侵攻した長谷堂城の戦いで、鮭延秀綱はその武勇を大いに知らしめ、重臣として一万一千五百石を領した。 しかし、元和8年(1622年)最上氏は改易となり、秀綱は下総国佐倉藩主土井利勝にお預けとなった。その後、秀綱は客分として五千石を領し、土井氏の古河転封にも従い天保3年(1646年)に没した。
その後、常陸国松岡より戸沢政盛が六万石を領して入封すると、当初は鮭延城を居城としたが、寛永元年(1624年)新たに新庄城を築いて移り廃城となった。
鮭延城は真室川東岸の川に面した台地の上に築かれている。 西は鮭延川、北と南には大きく谷間となり、南東のみ台地と繋がる地形になっており、この尾根を三重堀切で遮断することで台地と切り離している。その北側にはっきりとした形で三条の連続竪堀が残る。
現状台地の上はかなり広い平坦面があるが、所々土塁のような土盛りや段差があり、城内は複数の曲輪になっていた形跡が残る。虎口は北東に大手、南西に搦手があり、現在南西の搦め手側が城内へ続く道となっている。
県道35郷乱と県道321号線の丁字路の東側の山上が城跡。登り口は搦め手で、橋の東詰から東に線路を越えて内町へ入る細い道があり、入ってすぐの所に「鮭延城搦手門跡」の標識があり、そこから山上に整備された遊歩道が続く。しかし、この辺りには車を駐めるスペースはない。
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