築城年代は定かではないが、天正年間(1573年〜1592年)に柴田兵庫介によって築かれたと云われる。
天正年間(1573年〜1592年)に、柴田勝家の一族と称するものがこの地へ逃れてきて住み付き、京塚館を築いて柴田兵庫介と名乗った。しかし、慶長年間(1596年〜1615年)に清水城主清水義親によって攻め滅ぼされ、その後は清水氏の家臣武田河内が在城したという。
京塚館は京塚集落の南にあり、西へ張り出した尾根の先端に築かれている。
単郭の城で、東へ続く尾根を堀切で遮断し、堀切に面して土塁の付いた主郭を先端に置いている。背後の堀切は幅広であるが、南北両方に連続竪堀のような地形を確認することができる。したがって元々は細かな多重堀切であったとも考えられ、細かな連続堀切から大きく削った大堀切へ改修したとも考えられるが、単に後世の人によって削られた可能性もある。
城山の北麓の車道沿いに案内板が設置されている。そこから少し奥へ入った所から山上に続く道がある。
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