築城年代は定かではないが文明10年(1478年)頃に清水満久によって築かれたと云われる。 清水満久は最上の祖である斯波(最上)兼頼の曾孫で、鳴沢城主鳴沢兼義の次男である。 最上氏は北方の守りを固める為に鳴沢満久をこの地に封じ、清水氏を称した。
満久は当初白須賀の元館を築いて居城としていたが、文明10年(1478年)頃に清水城を築き、以後代々清水氏の居城となった。
長年にわたり庄内の大宝寺氏と争っていたが、永禄10年(1567年)頃には大宝寺氏によって清水城は落城した。
六代清水義氏には嫡子なく、最上義光の三男義親を養子に迎えた。この頃には清水氏は二万七千石余りの所領を持っていたという。
最上義光には三人の男子がいたが、嫡男義康は山形城に置いたものの、次男家親は徳川家、三男義親は豊臣家に近侍として奉公させていた。嫡男義康は義光より早く没し、家督は次男家親が継いだ。徳川家康の諱を受けた家親と、豊臣家に仕えた過去を持つ清水義親は氏第に対立が深まり、慶長19年(1614年)家親の命を受けた延沢遠江守光昌らが清水城を急襲し落城、清水氏は滅亡した。
清水城は最上川とその支流である藤田沢川との間にある台地の北端に築かれている。
清水城は台地の北端に本丸を置き、南に二ノ丸、大手門跡が残る。さらに南方に広がる広大な台地には城下町があったと云われる。
本丸は北端の頂部にあり、南には大きな空堀を配して台地と切り離す。 東から北下にかけて腰曲輪が付き、北側は西の谷に面して土塁が付き、二段の大きな曲輪となる。
本丸の南に空堀を挟んで東西に細長い曲輪があり、南方の空堀に対して土塁が付く。 その南側は二ノ丸が広がる。二ノ丸の南側は大きな土塁と空堀が残り、空堀には土橋が付く。ここが大手門跡で石碑と案内板が設置されている。
南東の山腹にある清水山 興源院が清水氏の菩提寺である。背後の山腹に清水城の顕彰碑が建っている。
大蔵村役場から国道458号線を南下して最上川を渡り、突き当たりの交差点を西へ曲がって県道を走ると清水城の大きな案内板がある。ここから山上に車で登ると大手門跡に至る。
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