築城年代は定かではないが庭月氏によって築かれたと云われる。 庭月氏は鮭延城主鮭延氏の一族で、本姓佐々木氏である。
庭月式部少輔綱政を初代として、庭月和泉守綱任、庭月理右衛門広綱と三代続いた。 庭月八幡宮に寄進された鰐口に元和7年九月吉日 佐々木理右衛門尉広綱の名が残っており、最上氏が改易となる元和8年頃まで、広綱がこの辺りに住んでいたと云われる。
庭月館は鮭川と岩下川が合流する地点の南側、鮭川に面した台地の上に築かれている。
現状残る遺構は単郭の城で、南北にやや長い一辺100m程の曲輪が残る。西は鮭川、北は岩下川を堀とし、西と南に空堀を設けて台地と遮断している。南は東側がやや南へ張り出ている。横矢を意識したようにも思えるが、西側の堀切に面して土塁を設けているにも関わらず、南は土塁を設けていないことから、南の堀は自然の沢を活用したものであろう。
北東隅部に墓碑があり、「大守公廣綱」と刻まれている。また、東側には鮭川に向かって降りていくスロープ、西の土塁の南端近くにやや開口した部分があり、ここが虎口のようで木橋が掛かっていたのであろうか。
この庭月館を中心に北に八幡館、南に小十郎館、玄蕃館があり、庭月館の支城群とされる。中心となる庭月館が単郭というのも不自然な気もするが、周囲は水田となっている。同一台地上にある小十郎館の堀が庭月館が城外側になるように付いているので、現状では庭月館の一曲輪とはいえない。
鮭延中学校から道なりに南へ進んでいくと八幡館、続いて庭月館の案内板が見える。八幡館との橋付近に車を駐めることができる。
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