築城年代は定かではないが永禄10年(1567年)頃に高橋鑑種によって築かれたと云われる。
筑前国守護代として宝満山城と岩屋城の城督であった高橋鑑種が、その支城として築いたのが桝形城で、天正14年(1586年)に岩屋城や宝満山城とともに島津氏によって落城したという。
桝形城は愛宕神社の鎮座する愛嶽山(おだけ)の山頂からひとつ南の標高432.0mに築かれている。
桝形城は山頂の主郭を中心に北と南東に伸びる尾根に曲輪を配している。 北尾根は三角形の曲輪を区画するよう堀切が一条あり、愛嶽山との鞍部に深い堀切を設けて遮断している。南東尾根は堀切はなく、先端部分に広い削平地があり、途中から屈折した堀底道が南麓の大石地区へと降りる道として付いている。
もう一つ興味深い遺構が愛嶽山から東へ降った尾根、愛宕神社の鳥居の部分に残る。 ここは土塁で区画された長方形の平地があり、北側は高土塁状の地形で更に北側に低い土塁が付き、東西50m程の規模になる。この土塁の下には堀切が二条残り、城郭遺構とも考えられる。「福岡県の城郭」によれば、江戸時代に神社を管理していた宝満二十五坊の一つ財行坊(新坊)跡に比定している。 しかし、現在桝形城として残る部分とこの部分の造りは全く異なっていることもあり、今残る状態がそのまま桝形城の一部とするわけにはいかないだろう。
宝満山と愛嶽山との間にある鳥越峠の部分に案内板が設置されており、ここから道標が出ている。鳥越峠へは宝満山から行者道を下りてきたが、林道沿いにある六所宝塔跡から少し降ったカーブの所から山へ入る道が鳥越峠に付いている。
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