築城年代は定かではないが応仁年間(1467年〜1469年)頃に新庄氏によって築かれたと云われる。
新庄氏は応仁の乱で山名氏に属して細川氏と度々戦ったが敗れ、細川方の赤松氏に属した。その後赤松氏が衰退すると浦上氏の家臣亀山城主中山信正に仕えた。
天文18年(1549年)乙子城主宇喜多直家は砥石城を攻略した恩賞として奈良部に領地を得て新庄山城を賜わり、新庄安政は竹原城を築いて移った。
永禄2年(1559年)直家は中山信正を謀殺し新庄安政の竹原城も攻め落として安政は自刃する。この時新庄山城も中山と新庄の軍勢に攻められ一部を焼失したといい、焼米や焼麦が出土するという。
城は砂川の西岸にある新庄山の山頂に築かれている。
主郭は北側の頂部にあって現在そこには石鉄神社が建っている。ここから南へ伸びた尾根に曲輪が配され堀切や土塁などの遺構があるというが、現在はハイキング道などの整備のためか城郭遺構はほとんど確認できなかった。
城山の北側に上道公園がありそこから遊歩道が山頂に通じている。
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