築城年代は定かではない。
応仁年間(1467年〜1469年)頃に日置孫一郎が細川氏に属して居城としていたが、山名氏の攻撃を受けて落城したという。
文明年間(1469年〜1486年)難波掃部介が浦上氏に属して居城とした。文明15年(1483年)福岡合戦で難波掃部介は南方城の留守を安藤宗重に任せ、浦上氏の福岡城に籠ったが、金川城の松田氏に加勢した山名俊豊の軍勢が南方城に攻め寄せ落城。安藤宗重は自刃したという。
城は南方地区の南方にある天神山に築かれている。
「おかやま全県統合型gis」によれば、天神山の山頂から北に張り出した尾根の先端部分(鉄塔から登りつめた所)が城址で、現在ここには社が建てられている。
一応山頂から南の尾根付近まで歩いてみたが、山頂部分は平ではなくやや傾斜している。側面が削られて城台のようにも見えるが道を付けた時に削ったとも考えられる。城郭の遺構らしいものはあまり見当たらない。
総合運動公園の東にある西池の所に尾根先に登る道があり、これを登ると天神社?に出る。ここから山へ道が通じている。社から南の山頂へは雑木林で道はないが、山頂付近から南尾根に通じる道は別にあるようだ。
最寄り駅(直線距離)