築城年代は定かではない。
永正年間(1504年〜1521年)には浦上宗久の居城であった。 浦上宗久は三石城主の浦上村宗の弟で、兄とともに赤松氏の重臣であった。
永正15年(1518年)浦上村宗は赤松義村に反発して播磨国置塩城を退き、居城である三石城へと退いて籠城した。このとき宗久は兄に同調せず、香登城に籠もって赤松氏に従った。 翌16年赤松義村が軍勢を率いて三石城を攻めたが敗れ、宗久は赤松氏に同調して攻めようとしたが、宇喜多能家がこれを見抜いていち早く村宗に通報したことで、宗久は城を捨てて備中へ逃れたという。
その後、村宗の子、浦上宗景が天神山城主として備前東部を支配すると、家臣の高取左衛門が城主となった。しかし、永禄年間(1558年〜1570年)に宇喜多直家が浦上宗景に反旗を翻すと香登城も宇喜多氏の支配となり、高取左衛門は帰農したという。
香登城は標高294mの城山山頂に築かれており現在はハイキングコースとして登山道が整備されている。
香登城は城山山頂の主郭部と、南東尾根、そして北尾根に遺構が点在する。
山頂の主郭部は広く削平されており、内部には微妙な凹凸や石列が確認できる。北端には土塁、南西隅に虎口がある。南西下にはっきりした段があり、そこから南西下の曲輪IIに向かって通路程度の細長い帯曲輪群がいくつか確認でき、一部には石積が露出している。
主郭から北へ下ると二重堀切2がある。幅は狭いがここも岩盤を削って竪堀を伸ばしている。
曲輪IIは南西端が一段窪み南東側は一段高くなって土塁がある。また南の谷筋から登って北ところに石列が確認できる。ここから谷筋を下ると二段の石積がある平場に通じるが大手はここであろうか。
主郭の南東下、標高242.1mの三角点のあるところが曲輪IIIで、尾根に沿って削平され、南端に堀切1がある。堀切1は浅いが岩盤を削ってあり、曲輪の切岸面にも一部石が確認できるので、もともとは石を積んでいたのかもしれない。
主郭から北へ続く尾根を進むと曲輪VIがある。削平されているのは間違いないが、切岸面は他の曲輪群に比べると荒れている。西側には竪堀状の溝がいくつか確認できるが、いずれも自然地形と思われる。
登山口は国道2号線香登駅前から北に入っていくと墓地を経て城山池がある。この城山池のところに駐車スペースがあり、城山や熊山への登山口になっている。
最寄り駅(直線距離)