正慶2年・元弘3年(1333年)伊東大和二郎によって築かれたと云われる。 南北朝時代に南朝方として挙兵した伊東二郎によって築かれたのが始まりとされる。
室町幕府の成立によって赤松氏が備前守護職になると、浦上宗隆が備前国守護代として三石城を居城とした。永正16年(1519年)浦上宗村は赤松義村から謀叛の嫌疑をかけられ三石城に籠もると、義村は兵を従えて三石城を攻めたがこれを落とせず、永正17年(1520年)1月に撤退した。その後、赤松義村は求心力を失い、大永元年(1521年)浦上村宗は義村を討ち戦国大名へとのし上がる。
村宗の跡を継いだ政宗は宝津城に居城を移し、三石城には城番を置いたが、後に弟宗景・国秀と不和となり宗景は天神山城に自立した。 政宗滅亡後、存在意義が失われ自然と廃城となった。
三石城は三石駅の西に聳える標高297mの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
主郭は山頂にあり南北に長い楕円形で概ね西側に土塁が残る。主郭の中央部に一段小高くなった段があり、外側がやや低くなる。所々列石があるが、曲輪の周囲に大きめの石が点在しており「軍用石」と案内にはある。
主郭から南西に伸びた尾根の二ノ丸(曲輪ii)、三ノ丸(曲輪iii)と続く。この曲輪群も北西の谷間側に土塁が付いており、土塁の内側に所々列石が残る。
三石城の最大の見所は大門跡とされる曲輪vii、そして三ノ丸の先端に小さく張り出した曲輪viiiの石垣である。曲輪viiの北西面は残念ながら崩れ落ちてしまっているが、それ以外は良好に残る。大手門跡とされる南側の開口とは別に北側にも開口しているが、この部分は畝状竪堀群の間をぶった切るように通路が続いており、もともとは閉じていたのではないだろうか。崩れてしまっているが、曲輪viiの下を川沿いに通行可能であったのは間違いない。
もう一つ、大手門とされる曲輪viiの南北にビッシリと畝状竪堀群があり、これも見所である。ただ残念ながらかなり浅くなっているので良く見ないと気づかないかもしれない。
主郭の北側にある堀切1と竪堀2の部分は岩盤を削っており、堀切は垂直の壁が立ちはだかる。堀切はそのまま西側に横堀となって延びており、その内側には所々大きな石を積み上げたものが残る。
北端にある曲輪xは鶯丸と呼ばれ、北西尾根に連続堀切、西下にも横堀状の遺構がある。
主郭は山頂にあり楕円形の曲輪で中心に一段小高くなった土壇があり、一部に石積が残る。主郭の西側に低い土塁が付いている。主郭の南下にある曲輪が二ノ丸、そして南西に伸びた長い曲輪を三ノ丸としている。
三ノ丸は北下に馬場と呼ばれる帯曲輪があり、これに面して土塁が付いている。この三ノ丸の西端に石垣が残っている。
主郭の西測面には二段の帯曲輪があり、そこに石組井戸が残る。その下方にあるのが三石城の最大の見所である大手門跡で、土塁囲みの小郭の南西と北に虎口があり、外側は石垣になっている。
主郭から北へ続く尾根には堀切が二条あり、二条目は大堀切でそこから大手門方面に横堀状の通路が付く。この尾根の北側に鶯丸と呼ばれる小郭があり、北と西に空堀が付いている。
浦上宗村の塚(墓)とされるものが、備前市木谷の木谷公民館脇にあり、備前市指定史跡となっている(地図)。
登山道の入口は旧山陽道沿いにあり、大きな看板が出ているのですぐにわかる。駐車場は少し離れた三石運動公園に駐める事ができる(登山口)。
もう一つ北側の深谷の滝側から林道があり終点に数台駐車可能。こちらは多少の高低差で約1kmの尾根道を歩く。(林道の駐車場)。
最寄り駅(直線距離)